5月 172014
 
新生オルセーで腰かけられるところ – 徳仁の『Water block』他
Musee d’Orsay

 

どうしても休憩スペースや椅子に注目してしまう…これは私のどうしようもない習性でございます。今回は、単なる休憩目的ではなくアートとしてのベンチ、徳仁の『Water block』を鑑賞(に座る?)することが、最大の来訪目的でしたので、『腰かけられることろ』として、ここにまとめて書いておこうと思います。

 

以下の写真4枚は、Excite ism – オルセー美術館に吉岡徳仁「Water block」2011.10. 28 より使わせて頂きました。

 

床は暗い色のフローリング、壁もブルーグレー系の暗い色を採用していて、以前の全体的に白っぽくぼやけた雰囲気から刷新されました。この壁の色の選択には感服いたします。絵画の色彩が際立つだけでなく、洗練されていて、同時に空間そのものに居心地の良さを与える気がします。また、シェードを通しての採光が素晴らしいです。(*これは最先端技術のスポットライトで、自然光を再現しているそうです。)

 

暗いフローリングに、暗いブルーグレーの壁。そこに、この『Water block』の透明感が、入ることで、絶妙なるバランスが完成します。徳仁のインタビューから「今回、オルセー美術館のリニューアルに際し、マネやドガ、モネ、セザンヌ、ルノワールに代表される印象派が展示されるギャラリーに、このガラスのベンチを展示することを考えました。この《Water block》は、プラチナのモールドの特殊な技術から生み出され、まるで水の塊の彫刻のように光が屈折し、透明で力強い造形が現れる作品です。まるでモネの《睡蓮》に描かれている水面のように波だったベンチの表面は、印象派の描いた光に包み込まれ、歴史と現代の美しい対話が始まる空間をつくり出すのではないでしょうか。』

 

「わたしは、透明でありながら光の屈折によって、強いオーラを放つものをつくりたいとずっと思っていました。ガラスが固まる瞬間に生まれる偶然の美しさ。それは、水がつくり出す美しい波紋やきらめきを連想させる、自然が生み出す無秩序な美の表現でもあります。』(吉岡徳仁)

 

フランソワ・ポンポンのシロクマを眺められるカウンター席のある Cafe de l’Ours(熊のカフェ)。シロクマの臀部を眺めながら美術館の資料を読んだりするのも良し。カフェの照明とシロクマのバランスも素晴らし!

 

時計台の裏の休憩スペース。混雑していて、椅子の写真が撮れなかったので、美術館のサイトから引用。

 

逆光で時計と人々の影が絵のように見えるこの風景は、まるで昔にタイムスリップしたかのようです。フカフカのこの椅子にすっぽりと納まって静かに寛ぎたいところですが…、この騒ぎ。

 

セーヌ川の向こうの丘にサクレクール寺院が見えます。

 

ほぼ美術館の全長に延びるベンチ。人々が思い思いに休憩しています。手前の人、奥様の膝で完全に眠っています。

 

カンパナ兄弟がデザインした「カフェ・カンパナ」でランチを頂きましたが、味も居心地もあまりお勧めできません。このインテリアを初めて雑誌で見た時には、なんて素敵なんだろうと心が躍り、絶対に行きたいと思ったのですが…。写真映りの良いデザインなのでしょう。

 

やっぱり、写真写りが良い。

 

吹き抜け部分に点在する彫刻、ちいさく見える訪問客。この開放感。そして、所々に設けられたベンチの納め方がうまい。

 

1986年の美術館としての開館以来、特に多くの来場者が、5階奥に混在していた印象派とゴッホを見に来るので、そこに混雑が集中。そんな鑑賞者の動線を最適化する必要性などから、2009に大改修に入り、2011年に再オープンされたとのこと。つまり、大改修の大きなポイントは、印象派のギャラリーとゴッホ、ゴーギャンなどポスト印象派のギャラリーをフロアーを変えて分けた点です。確かに、今回、ゴッホとゴーギャンが、対峙するように展示されているのが良かったです。

オルセー駅舎、1900年から2011年までの歴史を美しい写真を通して知ることができる素晴らしいサイトは、ここから

  •  5月 17, 2014
5月 162014
 
オルセー美術館でゆったりとベルエポックの世界に耽る

 

今回の改築で東側の時計塔のスペースが有効に使われるようになり、そこにアール・ヌーヴォーの展示があります。(この上が、時計台裏のシルエットが素敵な休憩スペースになっています)さて、この展示、改装後の見どころの一つと言われているのですが、印象派の展示室の混雑とは対照的に閑散としています…。私にとっては、ゆったりとベルエポックの世界に耽ることができて嬉しい限りです。当時フランスの最高水準の技術により制作された、工芸、家具、装飾品などの流れるような曲線が織りなす豪奢なな作品の数々。それだけでなく、アーツ・アンド・クラフツ、ドイツやイタリア、スペインのアール・ヌーヴォーの展示もあります。

 

パリ・メトロのデザインで有名な建築家エクトール・ギマールが手掛けたロワ邸の窓ガラス。しっかりとした鉛の縁取りと色ガラスのバランス、ガラスに描かれた奔放な線のリズムが気に入っています。植物や花などを表さない抽象的なラインは、下の長椅子などの室内家具と呼応しています。

 

同じくロワ邸の喫煙用長椅子。パリ・メトロでの鋳鉄細工の仕事を思わせるような思い切った曲線。左手に喫煙道具の小函を配置した非対象の世界。ギマールは日本の『床の間』の非相称性に影響を受けたと言われています。この日本の非対称な構図については、日本美術を先駆的に論じた美術評論家エルネスト・シェノーが、的確に論じているので引用します。「左右不均衡の構図は余白を生み、動きを予感される形式にとらわれない形である。これには日本人の気取らない生活観に満ちた美意識があり、日本人の自然観が息づいているのである。」更に「日本美術の非対称の概念は単なる破調や自然を模した不均等ではなく、全体として統一(ユニティー)を希求した、より高次な調和への志向である。」(1878年)

 

 

ガウディ、グエル教会のベンチ。ロートアイロンとオーク材のバランスが良く、温かみのある作品。ガウディの家具は、見た目にも美しいのですが、同時に機能的なのです。手すりは、手にしっくりきますし、座面は快適に人を包み込んでくれます。これは、彼が人間工学にも精通していたことを伺わせます。さて、この教会用のベンチ、座面が少し外向きにカーブしていて、二人が座った時に、互いに少し外側を向く感じがなんとも程良く感じます。

 

シャルパンティエが手掛けたベナール邸のダイニング・ルーム。この美しい曲線に魅せられて、この人のことをちょっと調べてみました。

 

シャルパンティエについて、ざっと。パリ、労働者階級の生まれで、少年期にジュエリー職人に弟子入り。美術家になりたいという思いから、15歳でパリ国立装飾美術学校学に入学。彫刻科を希望するも学費が高かったため、メダイユ彫刻科で学ぶことに。生活費や学費の為に働きながらもメダイユのレリーフ学び、その才能を見事に開花させる。寡作の人で、ひとつの作品を製作するのに数年の歳月を費やしたと言われる。その後、アール・ヌーヴォーの芸術家として高級家具を専門に製作するアトリエを所有し、商業的にも成功。ロダンらと親交があり、リアリスムにも深い理解を示す。下のレリーフ作品「パン職人たち」は、彼が持つリアリストとしての側面がよく現れた作品。

 

若き労働者の肉体美と機械のメカニカルな美の調和が心に訴えてきます。ロダン によって非常に高く評価さた作品。

 

アールヌーヴォーからアールデコへの移行期の美しい肘掛け椅子。ヴュイヤールやボナールをはじめとするナビ派の作品が家具と一緒に展示されています。洗練されていながら濃艶な雰囲気が漂うカラースキームには脱帽します。

 

 

  •  5月 16, 2014
5月 132014
 
『ルーブル・ランス』の曖昧で幻想的な佇まいに魅了されて

 

地域再生の起爆剤
パリ北駅からTGVで1時間程度、ランスにできたSANAAが設計したルーブル美術館別館に行ってきました。ランスと言っても、シャンパーニュ地方のランス(Reims)ではなく、ベルギー寄りのカレー地方にあるランス(Lens)です。炭鉱の町として栄え、その後衰退したままのこの地で、ビルバオのグッゲンハイムが、町の観光地化を大きく牽引し、成功をおさめたように、この美術館も地域再生の起爆剤としての重責を担っています。

「風景の中に消える」というコンセプト
敷地を平地にせず、その高低差に馴染むように平屋の建物を配置した雁行建築。反射率の高い酸化皮膜されたアルミパネルとガラスの連続面に周囲の木々が柔らかく映し出され、空に溶け込み、曖昧で幻想的な印象を与えています。サナー特有の風が吹き抜けるような空気感、透明感もそこにあります。『金沢21世紀美術館を昇華させたもの』程度の気持ちで、この地を訪れましたがスケール感が全く違っていました。

 

 

『時のギャラリー』(la Galerie du temps)
「紀元前3千年から19世紀までの全作品をひとつのスペースに時系列に展示」することがコンセプト。手前から奥へと、アルミの壁に刻まれた年代にそって空間が細長く伸び、3Dの時代年表の中に舞い込んだような感覚です。

古代ギリシャの作品が、ペルシャ帝国やファラオ時代のエジプトの作品と隣り合って並んでいたり、古代ギリシャの石像を眺め、その視線の先にバロック絵画が見えたりします。自分の立ち位置と時代がリンクしていることがとても面白いです。

「パリと違ってこの美術館の目的は、6千年の歴史の中を歩きながら、博物館的に展示物を古いものとして見るのではなく、現代まで時間が繋がっていて、その先に自分たちがいるのだということを感じてもらう場所にすること、さらに異なる地域をまたいで行くので、いろいろな異文化を勉強する場所にすることにあるのです。」(妹島さん)

 

まず、展示室に入った瞬間、立ち尽しました。これまで経験したことのない、不思議な感覚。子供連れも多く、ある程度の話し声がしているのに静寂の空気が漂い。まるで雲の中を彷徨っているような現実離れした感覚です。 柔らかい自然光が、アルミの壁に反射して、作品や来場者がぼんやりと写り込んでできる効果が、このフワッとした雰囲気を作るのでしょうか?屋内でも屋外でもないような、何とものびやかな気分で美術鑑賞ができるのです。これだけ質の高い重厚な美術品が並んでいるのに、心が呑み込まれたり、疲弊するような、そういう圧迫感がこの空間にはありません。

 

梁が反復し、ルーバーが二重になった天井なので、直射日光を遮断し柔らかい自然光が入ります。

 

 

ラ・トゥールの「灯火の前の聖マドレーヌ」横には、悔悛するマドレーヌに合わせて、腕組みをして悔悛の表情の聖人の木彫り像。他にも、例えば、絵画の中の人物と隣の彫刻の人物の顔が同じ方向を向くような展示の工夫が沢山見られました。

 

フレームのないガラスケースなので、展示物の肩越しに違う時代の展示物が見えます。これも美術館特有の心への圧迫感を緩和して、ゆったりふわっと鑑賞できる効果があるような気がします。

 

 

 

 

ガラスを多用し、光を取り入れた設計で、内部は明るく、内と外の境界は曖昧です。仕切りは最小限で、1つの大きな空間の中に、受付、ショップ、インフォメーション、カフェなどの機能が見渡せます。

 

 

まだ進行中の、「Imrey-Culbert」によるランドスケープ。こんもり隆起した芝生は腰かけ椅子としてデザインされているのでしょう。大きな飛び石のように配置された白いコンクリートの輪が、躍動感を生んでいます。

 

ガラスのエレベーターを下りて地下に行くと、美術品の保管庫が全面ガラス張りで可視化されています。見ていると楽しいです!

 

 

 

  •  5月 13, 2014
5月 102014
 
ヴァン・ゴッホとアルトー オルセー美術館 特別展

 

オルセー美術館の特別展は、アントナン・アルトー(Antonin Artaud)の理論と視線を通してのゴッホ展。

アルトーは、たびたび襲う精神病に苦しみながらも創作活動を続けたフランスの劇作家,詩人,俳優。

「9年も精神病棟に収容されていた君なら理解できるはずだ。」と頼まれて、

1947年のゴッホ回顧展のテキストを献呈しています。

「ゴッホは狂人ではない。彼の作品、メッセージ、世界観を拒否した社会こそが、彼を自殺へと追いやったのだ」と。

素晴らしい特別展に出会えた幸運に感謝です。

この特別展では、『ローヌ川の星月夜』の黄色く川に反射する街燈の光の眩しさに驚かされました。

初めて見た訳ではないと思うのですが、もしかしたら改装された壁の色や照明の効果によるものだったのでしょうか?!

 

  •  5月 10, 2014
5月 062014
 
ビルバオの再生

 

優れた都市デザインが都市を再生させると云うまるで机上の方法論を、

魔法みたいに見事に実現してしまったビルバオ市。

私の尊敬するシーザー・ペリの途轍もなく大胆なマスタープランを採用し

世界の著名建築家にデザインを競わせ、

最先端技術を駆使して、美術館、数々の橋、新空港、地下鉄、国際会議場、コンサートホールを建設。

これらのモダンで無機質なデザインが当初から簡単に市民に受け入れられたとは考え難い…。

特に、フランクゲーリーの美術館など!

さらに、人口35万、都市圏を入れて105万人という都市の規模にはそぐわない、

トラム1路線、メトロ2路線、鉄道数社、バス数社という公共交通。

実際に全て利用してみましたが、システマティックで快適そのものです。

採算性をどう考えたのか、妥当性について疑問視されたでしょう。

しかし今では、この魅力的な都市に、観光やコンベンションの目的で

世界中から人々が押し寄せるようになりました。

バスク州政府なのかビルバオ市長なのか、

どんな確信があってこのプロジェクトに邁進したのか、

その勇気と見識と想像力を称えたいです。

 

 

町の中心を流れるネルビオン川沿いの芝生の上を、歴史的町並みを背景にしながら、音もなく颯爽と走るLRT(Light Rail Transit)。 環境と人に優しく見栄えもする、低炭素型都市づくりの象徴。低床式のトラムは本当に乗降が楽です!  この町は、地下鉄をはじめ至る所がバリアフリーです。

 

フォスター卿の地下鉄駅

 

フォスター卿がデザインした地下鉄の入り口が、町中で口を開けています。

 

カラトラヴァによる曲線の美しいチタニウム製のズビズリ橋(バスク語で白い橋)。

 

真っ白なアーチと繊細な吊りケーブルがビルバオの青空に映えます。吊りケーブル全体がアーチの頂上へ向かっていくような上昇感、求心性があり、かくも美しい橋なのですが、どういう構造で歩道面を吊っているのか不思議です。
先に見えるツインタワーがイソザキ・アテア(バスク語で門)。

 

ビスカヤ橋。世界遺産にも登録されている世界最古 (1893年)の運搬橋です。ワイヤーで吊り下げられたゴンドラが、ピストンで車や人を運びます。

 

 

フランク・ケーリーのビルバオ・グッゲンバイム美術館。年間100万人が訪れ、莫大な建設費は3年で回収したとか…。

 

いつでも沢山の人が散歩している、憩いの場となっているグッゲンハイム美術館の遊歩道。

 

カラトラヴァの空港

 

どこまでも白と曲線を求めた姿は、優雅さを感じさせます。サーフボードのような形をしたベンチの座板から、ボーディング・ブリッジにいたるまで、「ここまで曲げる?」と言えるほど、曲げまくる、カラトラバの真骨頂。この空港にいたボーディングまでの時間、鉄とガラスで出来ている建物なのに、布製のテントの中にいるかのような感覚の、温もりある空間でした。

 

 

 

 

  •  5月 6, 2014
5月 062014
 
Museu Can Morey de Santmarti

 

マジョルカ島パルマで、カテドラルの見学をして、その界隈の小道を散策していたら、素敵な中庭がちらりと見えたので、中を覗いてみるとダリの美術館でした。マジョルカ風の素敵なお屋敷にダリの軽いタッチの色彩の優しいスケッチやリトグラフが展示されていてホッと心が和みました。

 

 

この屋敷を見つけた時に、どうしてもダリの作品を展示したいと感じ、ダリの遺族とも相談しながら、作品を集めてギャラリーをオープンさせたという Wolfgang Hornke さん。ドイツ人でキュレーター兼画商。この人、晩年のシャガールの 所に、あのマインツ教会のステンドグラスの制作を依頼しに行った人だそうで、説得するの はそれは大変だったとか…。結果として、ユダヤ人のシャガールが、あんなに素晴らしい作品をドイツに残してくれたことに、ドイツの人々がどれだけ感謝しているかを語ってくれた。 長年パリで暮らし、ムルロー氏とも親交があったらしく一緒に写った写真を見せてくれました。

 

和紙にプリントされて優しくて繊細な作品がたくさんありました。

 

 

 

 

 

ムルロー工房(リトグラフの工房)のポスター。 ムルロー氏は、ピカソ、マティス、シャガール、ミロ、ブラック、コクトーなどと深 い信頼関係で結ばれていて、彼らと共に20世紀のリトグラフの隆盛を築いた人物と言われています。

 

ウォルフガングさんが、注目しているというアルゼンチンの画家『Horacio Sapere』

 

  •  5月 6, 2014
5月 062014
 
大好きなタピエス美術館 バルセロナ
Fundacio Antoni Tapies

 

これで、3度目の訪問になる私の好きな空間です。1880年代にモンタネールが設計した出版社の建物。廉価で構造体の基盤を作る資材に過ぎなかったレンガをファザードに使ったことで、当時から注目を集めたそうです。それをタピエスが買い取り、美術館として改装、1990年にオープン。彼は、この美術館を自分の作品展示だけでなく、芸術の交流の場、新進アーティストの発信の場として開放しています。

以前に、浅ましい門外漢ながらタピエスについて考察しております。よろしければここからお読みください。

 

写真は diarioDESIGNから転用。モンタネールの装飾的な美しいファサード。建物の上に浮遊しているグシャグシャの針金は、『雲と椅子』というタピエスの作品です。

 

写真は diarioDESIGNから転用。細い鉄の柱が林立する白い空間。吹抜けからの採光がとても効果的で息をのむ美しさです。

 

2階の片側にある図書館。木材とガラスを、鉄の柱と平行な縦の線で組み合わせて内部を見せていますが、この素材の組み合わせとバランスが好きで好きでたまりません。

 

 

 

穴の開いた高さ3メートルの靴下のオブジェ。嫌悪感をもたらすものへの再評価も彼のテーマ。汚い足、捨てられた靴、果ては肛門まで。理想的なものを排除し、現実世界の物質に目を向けていく姿は、アンフォルメル芸術の概念の一つだとか…。よくわかりませんが、単純にお茶目でかわいいと感じます。

 

 

靴下を見に屋上へゆくと、エレベーターホールの天井が鏡。この効果が面白くてベンチに腰かけて、しばし自分を眺めます。

 

  •  5月 6, 2014
5月 052014
 
Museo De La Fundacion Joan Miro

 

寡黙なミロが、語った言葉が痺れます。
「私は大地からはじまり、ものを描くのです。
大地を踏みしめて描かなければならない。
力というものは足から入ってくるからだ。」

彼の大地はカタルーニャの土であり風土そのものです。
郷土を愛し、大地に深く根ざすことをつらぬいた芸術家、ミロ。

人とは、社会とは、国とは何か?
そして、そこに息づく命と、生きる歓びとは?
カタルーニャの大地や木々、風や星や雲の中にその答えを見出したミロ。

彼の評伝を読むと苦闘の日々が伝わってきます。
寡黙であり、真面目であるがゆえに、
感じたこと、見たものの本質から目を反らさず、
自身の内面と真摯に向き合い、もがき苦しんでいます。

そういう苦悩や悲しみの末に生まれた彼自身の精髄のような作品であるから、
私たちの魂を揺さぶるのだと思います。
ミロの精神の崇高さが作品の豊かさとなって
人々から愛されているのでしょう。

ミロのことが理解したくて、カタルーニャの歴史資料を読み、
頭の中を整理するために簡潔に年表にまとめてみました。
興味のある方はこちらからお読み下さい。

『美の旅人スペイン編』(伊集院静著)の中で、
ミロと詩人で美術評論家の瀧口修造の出会いと親交の部分が興味深く描かれていました。
瀧口修造は、ミロの才能を一早く発見し、
1940年、世界で最初に彼に関する論文を執筆刊行しています。
1966年、ミロが来日した際に銀座の南画廊で二人は初めて出逢い、
そこで瀧口が26年前に執筆した著書を渡し、
この本の発行日を知ったミロは、
10歳年下の無口な日本の詩人の肩を優しく抱いたと描かれています。
以来二人の友情は続き、ミロが再来日した折、二人は三日間ホテルに同宿して、
『手作り諺』という詩画集(7カ国語の本文にミロのリトグラが添えられた画期的な本)を合作したそうです。
その後もミロは瀧口の詩集のために何点かの作品を描き、『ミロの星とともに』を刊行。

そして、伊集院さんは、瀧口の詩集『曖昧な諺』の中の
「石は紅さして、千年答えず」という一節を紹介していました。
それに続く伊集院さんの文章が
「ミロもこの一節を読んでいたと想像する。大地は美しく寡黙であると。画家と詩人は見据えていたのではなかろうか。」

 

ミロの作品とヘミングウエイとの逸話も有名です。

ミロの作品『農園』を買い求めたヘミングウェイの言葉
「この絵は、スペインにいるときに感じているすべての要素が内包されており、
その一方でスペインを離れて、故郷に戻れないときに感じるものすべてがある。
誰もほかに、こんなに相反した二つのものを同時に描きえた画家はいない。」

“It has in it all that you feel about Spain when you are there and all that you feel when you are away and cannot go there.
No one else has been able to paint these two very opposing things.”

制作に9ヶ月も費やしたこの作品は、完成当初、不評でした。
ミロは、パリ の画廊を歩き回りましたが買手はつきません。
たまたま一日だけ、カフェに展示する機会を与えられ
そのたった一日の展示期間に、この作品に魅入られた人物がヘミングウェイ です。
しかし、当時のヘミングウェイには、お金がありません。
ヘミングウェイと彼の友人は、街を奔走し、友達から金を借り集めます。
なんとか支払い期日に間に合って、ヘミングウェイ はこの作品を手に入れたそうです。

 

 

ガウディやミロのカタルーニャ魂を考えるために年表を作りました

 

『農園』National Gallery of Art, Washington
左にある畑がきれいに耕されて、種まきの始まりを待ち構えている様子なので季節は春でしょう。犬は欠伸して、鶏の鳴声がこだまし、遠くの井戸では馬が水を汲み上げています。あちこちに散乱する農具。もうすぐ始る仕事の準備に追われている様子。人も動物も、勝手気侭に行動している様だけど、ある秩序が感じられます。この作品を観ていると、風の音や、動物達の声や、農作業に従事している物音が聴こえる様な気がします。それは、何故だか懐かしい物音で、農家の生活とは無縁のわたしでも、故郷に帰った様な錯覚を抱いてしまいます。

 

 

 

  •  5月 5, 2014
5月 032014
 
Museo Guggenheim Bilbao

 

 

フランク・ゲーリーらしい曲線。圧倒的な存在感の造形が、周辺の公共空間と調和しながら泰然と鎮座しています。美術館には、年間100万人が訪れ、莫大な建設費は3年で回収したとか…。

 

幾重にも重なるチタンの局面が光を反射して美しいグラデーションを作っています。また、建物全体の緩やかな曲線と呼応するかのように川沿いの遊歩道も湾曲していて一体感があります。さらに、この遊歩道の湾曲によって、ネルビオン川も同じ曲線を持っているかのように見せています。

 

ライトアップが素敵な夜の遊歩道

 

ルイーズ・ブルジョワの巨大蜘蛛(Maman)もちゃんといます。

 

先に見える高層ビルは、この都市再生マスタープランを担当したシーザー・ペリの作品。

 

空にニョロニョロと伸びてゆく感じ。

 

エルネスト・ネト (Ernesto Neto)の展示室。伸縮性と透過性に優れた布地を用いた有機的な形態のインスタレーション。 解説によると、 「感覚は次第に解き放たれていき、 まるで胎内にいるような安らぎに包み込まれる」 とのこと。 ネットの中に自然な香料が入っていて それがまたこの空間にぴったりの安らぎの香り。

 

ヨーコ・オノの「願いの木」 。ネトの展示室も ヨーコの「願いの木」も どちらも参加を誘うアート。 人々が参加して、 見事にアートに溶け込んでいます。後ろの巨大な鍾乳洞みたいなインスタレーションは、エルネスト・ネトのもの。

 

沢山の自然光が入り、開放感のある吹き抜けエリア。この空間の特製を最大限に活かしたネトによるインスタレーション。巨大なオブジェにも、やはり安らぎに包まれた感覚があります。

 

  •  5月 3, 2014
12月 162013
 
仏教学者 鈴木大拙の世界
 あ

禅を中心に仏教の本質を西欧世界に伝えることに尽力し、

1966年に95歳で亡くなった鈴木大拙さんの『鈴木大拙館』を訪れました。

敷地の特長である斜面緑地を背景に、石垣や水景など金沢を象徴する景観を創造し、

その中で鈴木大拙の世界を展開するというコンセプトのもと谷口吉生が見事に設計しています。

建築は、「玄関棟」「展示棟」「思索空間棟」を回廊で結ぶとともに、

「玄関の庭」「水鏡の庭」「露地の庭」によって構成され、

この3つの棟と3つの庭からなる空間を回遊することによって、

来館者それぞれが鈴木大拙について知り、学び、そして考えるようになっています。

しんしんと降る雪の中、町の喧騒から逃れ、

心静かに、物思いに耽ることができる上質な空間で、鈴木大拙に関する本(置いてあった円空の本も良かったです)を何冊か読み彼に思いを馳せました。

最後にいくつか抜粋しています。

 

エントランスのアプローチ

 

玄関から展示棟までの『内部回廊』。足元よりの光が動線を示唆し、幻想的な空間を創り出しています。

 

『展示空間』に掛けられた「それはそれとして」の書。大拙さんは悩み事などを相談されると、じっくり話を聞いたあとに「それはそれとして..」と話し始めていたそうです。 自分の努力ではどうにもならない壁にぶち当たったら「それはそれとして」とつぶやいてみると、うまくいくこともあるかもしれません! 私もこの書のポストカードを机に置いて、物事にとらわれない心を養いたいと思っているのですが…。簡単ではありません。

 

大拙の著作と映像やラジオなどが視聴可能なiPadが置いてある『学習空間』。 窓の外は『路地の庭』。つくばいはイサム・ノグチのものだとか。

 

雪の降る『水鏡の庭』。定期的に波紋が発生し、水面はいったん乱れ、また元の静寂へと戻っていきます。しかし、戻ったように見えても先ほどまでの景色とは違います。水も、一箇所にはとどまらず絶えず変化しています。水鏡の庭に浮いているように佇む『思索空間』。

 

『展示棟』から『思索空間』への回路で、『水鏡の庭』を眺めることになりますが、私的には、ここは一種の瞑想空間。降りゆく雪が水面にあたり、消えてゆく様子を無心で長いこと眺めていました。

 

『思索空間』側から『展示棟』へ戻ると、斜面になった背景の自然が視界に入ります。

 

 

 

日野原重明さんのコラムから

『仏教学者の鈴木大拙老師の言葉「それはそれとして」が私の心に深く染みこんできました。 特定の物事にとらわれることなく、「それはそれとして」、心を流れる水のように保つ。
来るべき時間をよりよく生きるため、しなやかな心で前を向く。
「それはそれとして」そうつぶやいた時、私はやっと体の疲労感とともに、精神の疲れまでもが、さらさらと洗い流されていったように感じました。』

 

大拙師の最晩年の15年を秘書役として生活を共にし、記念館の名誉館長である岡村美穂子さんと大拙について『三人の女性と鈴木大拙』(上田閑照著)から

「一人」を生き、世界の只中で働きつづける大拙に、ニューヨークで彗星のように一人の少女が現れる。

その人こそ大拙の死まで秘書を務めた岡村美穂子さんでした。
この出逢いこそ、正真正銘の出逢いと呼ぶべきでしょう。

以後、大拙は生き生きと、明らかに生まれ変わったのでした。
その出会いについて、大拙の没後、岡村さん自身が書いている。

ニューヨークに住むハイスクールの一生徒、十四歳の少女が
「仏教のえらい先生が日本からおいでになって」
コロンビア大学で講義があるということを知り、
「どれ、聞いてみてやろう」と
「私も気負っていたのかもしれません」と彼女は言う 。

大勢の大学生や教師たちの間に忍び込み、大拙先生の現れるのを待っていた。
やがて教室の扉が開かれ、片手にこげ茶色の風呂敷包みをかかえた大拙が
「風を切るような大股でサッサッと」教壇を目指してまっすぐに歩いてゆく。
教壇にのぼり、風呂敷包みを丁寧に広げ、
和綴じの本を二冊取り出して、その本をめくってゆく。

その大拙の現われにおける身体の動きに、彼女は
「いつわりを知らない他の生き物のしぐさ」を感じた。
「先生は、然るべき項を見つけると、静かな口調で話をはじめられました。
私は、その気品ある見事な英語に驚かされました。」
大拙(当時八十歳)の「仏教哲学」の講義が始まった。

講義の内容は十四歳の少女には難しかった。
しかし講義を理解する以上のことを感じ取っていた。
「いつわりを知らない他の生き物のしぐさ」と彼女は言う。
人間には大なり小なり自意識による歪みや澱みが生ずるものだが、
彼女が大拙に見たものは、身体化された真実の自然さである。
彼女はそれを見ることができた。

彼女は「先生が全身で示される大説法それ自体」の響きを聞いた。
大拙は、繕わず巧まないところに大いなるものが現れるという意味の居士号「大拙」の通りに、その存在の現われをもって彼女を説得した。

彼女は、仏教も禅も知らず、素手で、それだけにより直接に大拙の存在の真実性を感じ取ったのである。
仏教界での大拙の連続講演も聞くようになった彼女は、
やがてコロンビア大学付属のホテルに住む大拙先生を訪ねるようになり、
大拙は彼女にとって次第に決定的になってゆく。

「人が信じられなくなりました。生きていることが空しいのです」。
少女のこの訴えを聞いて、大拙はただ「そうか」と頷いた。
「否定でも肯定でも、どちらでもない言葉だと思いました。
が、その一言から感じられる深い響きは、私のかたよっていた心に、
新たな衝撃を与えたのではないかと、今にして鮮明に思い出されます。
先生は私の手を取り、その掌を広げながら、
「きれいな手ではないか。よく見てごらん。仏の手だぞ」。
そういわれる先生の瞳は潤いをたたえていたのです。
私が先生の雑務のお手伝いをしながら、心の問題と取り組ませていただいたのは、このような環境でのことだったのです。

 

 

 

 

 

  •  12月 16, 2013