9月 052014
 

バルセロナの町を歩き、モデルニズモ建築に触れ、美術館を訪れ、
モンタネールやガウディ、ピカソやミロのことを考えながら、
彼らが共通して拘り続けたカタルーニャ人としての誇りとは何なのか?
それが知りたくて、数冊の歴史の本を読み
自分の頭を整理するためにカタルーニャの歴史(一部スペインの歴史)の流れを年表にまとめてみました。
表層的な要点だけの歴史ですが、
それでも彼ら(特にミロ)が、生涯、強い民族意識と郷土愛を骨格に作品を生み続けた精気の根源を
ほんの少しだけ分かった気がしています。

ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが作ったと伝えられるバルセロナ
BC3000 古代イベリア人が定住
BC12C フェニキア人がイベリア半島に進出
BC 7C ギリシャ人(フェニキアと勢力を競う)が交易を目的に地中海沿いに移住
BC 5C~3C ローマ帝国の植民地となる
BC 2C ポエニ戦争(ローマVSカルタゴ)
BC236 カルタゴの将軍ハミルカル・バルカス(ハンニバルの父)が、この地をイベリア半島の拠点に選び、彼の名前が『バルセロナ』の由来。
AC 7C~8C イスラムによる支配(100年程度)
中世 カタルーニャ北部の至る所で小さな伯領が組織され、これらの弱小国からカタルーニャ文化が生まれ発展。カタルーニャ美術館の素晴らしいロマネスク芸術やピレネーの山奥にひっそりと佇むロマネスク教会の壁画(息をのむほど美しい)や祭具の数々。

貴族の勢力争いで最も力を持ったバルセロナ伯が、王国を名乗らず、実質上のカタルーニャ公国を築き、自治公国として運営。

801~987 バルセロナ伯はフランク王国に臣従し、フランク王国の辺境領(国境付近に置いた防備の為の軍事的領地)となる。
1007 西隣のアラゴンと連合。カタルーニャ=アラゴン連合王国となり、歴代のバルセロナ伯はアラゴン王位をかねる。バルセロナは、地中海進出の拠点として繁栄。
1258 フランク王国から独立
12~15世紀 造船業と地中海貿易による繁栄の時代。ラテン語からカタルーニャ語が派生し、政治・経済の繁栄を背景に、カタルーニャ語による中世文学の黄金時代へ。
1265 バルセロナ市議会や「ジェネラリタット(全カタルーニャの代表)」と呼ばれる政府機関の誕生。ヨーロッパ最初の政府の一つであり、カタルーニャにおける自治の象徴。その後もこの議会が、王の不在の際や戦争のような非常事態に、君主に代わってカタルーニャを統治してきた。そして、現在のカタルーニャ自治州政府へと繋がっている。
1283 ローマ法典の伝統にならいカタルーニャ憲法が編纂される
1469 バルセロナ家とアラゴン王国の血をひくフェラン2世とカスティーリャ王国(マドリッド)のイサベル王女の結婚により、イベリア半島のキリスト教王国が統合。カタルーニャもスペインという一つの同君連合に併合される。
1492 最後まで残っていたグラナダ周辺のイスラム勢力が征服され、レコンキスタが完了
1492 コロンブスの大陸発見。アメリカ大陸進出。ヨーロッパの関心は大西洋へ。地中海貿易は縮小しカタルーニャは衰退へ。
16~17世紀 約80年間のスペインの黄金時代へ
カタルーニャは独自の法と憲法を維持し自治権も維持したが、カタルーニャから自治を奪おうとするスペイン王により徐々に浸食されていく。
1701~ 後継者のいないスペイン国王カルロス2世の死により、ハプスブルグ家(各州独自の法制を尊重し伝統的な統治を約束)とフランスブルボン家(フランス風の中央集権をめざす)が、それぞれスペイン王家との血縁関係があることを理由に王位継承戦争を始める。
結局、ブルボン家のフェリペ5世がスペイン王となる。(今日まで続くスペイン・ブルボン家の始まり)。アラゴン・バレンシア・カタルーニャは、ブルボン王家の統治に抵抗。
1714 9月11日、カタルーニャの都バルセロナは、スペイン国王フェリペ5世の軍(カスティーリャとフランスの合同軍)に陥落される。中世以来のカタルーニャ独自の法や政府は失われた。自治権を取り上げられ、カタルーニャ語の禁止、大学の廃止などカタルーニャは閉塞を強いられた。この日は「屈辱的な敗北の日」として人々の記憶に刻まれた。
18世紀 世界に君臨したスペイン帝国の斜陽化。スペインは対外的には衰えをみせたが、国内、特にカタルーニャ地方の産業は急速に発展した。
19世紀

 

 バルセロナは、スペインでほぼ唯一産業革命を成し遂げ、一気に工業化、近代化が進み、都市への人口が集中し、衛生面などの改善の必要性から、セルダというタウンプランナーにより素晴らしい田園都市計画が立てられた、それに沿って、ゴシック地区を囲っていた城壁が壊され、グラシア通りやカタルーニャ通り界隈に緑地をふんだんに取り入れた新市街が拡張された。

木綿工業によってもたらされた莫大な富により、産業ブルジョワジーという活力ある層が、新市街に競って豪奢な建築を求めた。モデルニスモ建築の流行。新市街は、1888年のバルセロナ万国博で決定的な容姿を現わし、ヨーロッパの注目の的となる。

このように当時の経済力や自信に裏打ちされ、それまで漠然と感じられてきた民族的・地域的独自性の意識や集団的帰属意識がナショナリズムとして覚醒していった。スカタルーニャ語の復活と自治を求めるカタルーニャ主義(カタラニズモ)が、左翼も右翼も政治的見解のいかんによらず包括的に拡大。また文化的にもカタルーニャの栄光の時代『中世』のロマネスクやゴシック芸術に目が向けら、カタルーニャ・ルネサンス運動が起こる。

『モデルニズモ』についての考察

『モデルニズモ』の巨匠であるモンタネールもガウディもカタルーニャ主義の洗礼を受け、カタルーニャ人としての誇りを胸に、カタルーニャの伝統工芸を尊び、中世美術に強く惹かれました。また、中世、キリスト教徒とイスラム教徒が共存するという環境下で生まれた両者の折衷的な建築様式(ムデハル様式)なども自由な発想で取り入れました。『モデルニズモ』は、カタルーニャ人がカタルーニャ主義のもと、独自性を追求した末に創り上げた『ほかの土地にはないカタルーニャ独自の建築様式』です。単に新しい芸術を模索した『アールヌーヴォー』とは基本理念が違いますし、それ故に世紀末の廃頽さも見られません。
また、当時のバルセロナの発展拡大の状況下において華開いたのが『モデルニズモ』であり、19世紀後半に蓄積された資本の投資先として建築が選ばれた訳です。今もなお、高い評価で、人々を魅了して止まない『モデルニズモ』建築は、その魅力が最も発揮される土壌が整っていたが故に実現したとも言えます。

「建築というのはその時代に生きた人々が潜在下で感じていながらもなかなか形に出来なかったものを一撃の下に表す行為だ」(槇文彦)

この言葉の通り、19世紀末、カタルーニャ・ルネッサンスやカタルーニャ主義運動で高揚するバルセロナの人々の民族としての帰属意識、誇りや自信、そういう空気を感じることができるから、私たちはバルセロナに通ってしまうのかもしれません。

1914~1918 第一次世界大戦。スペインは中立を保つことで経済発展。
1923~ 第一次世界大戦後、スペインは、経済が落ち込み、労働運動が先鋭化、バスクやカタルーニャの独立自治運動やスペイン領モロッコのベルベル人の反乱などで国が混乱。バルセロナ総督プリモ・デ・リベーラが、軍部や教会、富裕層の支持を得て、クーデターをおこす。クーデターの承認していた国王アルフォンソ13世より首相に任命され、軍事独裁政権を樹立。ナショナリストとして強国化を目指し、議会を解散、憲法を停止、言論統制を行って労働運動と地方自治運動を弾圧。同時に放漫財政により財政が破たん寸前となる。
1924 ミロの『カタルーニャの農夫の頭』の連作は、リベーラ政権によってカタルーニャ語が禁じられたことに反発して描かれた。
1929 世界恐慌の影響が、スペインにも押し寄せ、通貨価値の崩落からリベーラの経済政策の行き詰まり。
1930 アルフォンソ13世から退陣を迫られ、パリへ亡命。その後に病死。
1931 軍政とそれを支えた国王への不満が高まり、国王アルフォンソ13世は、国外脱出。王制(君主制)が廃止されたのに伴いスペイン第二共和制が成立。カタルニアもつかの間の自治権を得た。
1935 カタルーニャ内の左翼(市民派)、右翼(ファシスト)も急進化が進み、市民派のカタルーニャ人が蜂起してバルセロナに集結。
1936 スペイン全体の共産党大会で、人民戦線戦術(反ファシズムの統一戦線)が採択されると左派勢力が再結集。当時の右派勢力の足並みが乱れていたこともあり、左派の巻き返しが進む中行われた選挙で、左派が圧勝、人民戦線政府が成立。

モロッコへと遠ざけられていたフランコ将軍がクーデタを起こし、各地で右派による反乱が勃発、スペイン内戦へと突入。フランコはヒトラー政権とムッソリーニ政権から支持を受けて戦いを有利に展開。人民戦線側はソビエト連邦から支持を受けたものの、イギリス・フランスは不干渉政策をとったために劣勢が続いた。

国際義勇軍である国際旅団(ヘミングウェイや、後にフランス文相となったアンドレ・マルローや、ジョージ・オーウェル、写真家ロバート・キャパなどが参加)が、各国から集まって人民戦線を支援。

1937 バスク人の地域文化の拠点であり、独立と民主主義の象徴であるゲルニカを見せしめの爆撃で敵の戦意をそごうと、ドイツから送り込まれた航空部隊が、3時間にわたり3000発もの爆弾を落としたゲルニカ無差別爆撃。焼夷弾が本格的に使用された世界初の空襲。

フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの言葉
「ゲルニカには地上で一番幸せな人びとが住んでいる。聖なる樫の樹の下に集う農夫たちがみずからを治め、その行動はつねに賢明なものであった。」

1937 パリ万国博覧会のスペイン館に、ピカソの「ゲルニカ」、ミロの「刈り入れ人」が展示される。

ピカソの『ゲルニカ』についての言葉
「きみたちが読み取ったアイデアや思想を、私も頭の中にもっているのかもしれない。ただし、それは本能的なもの、無意識のなせるわざなんだ。私は絵のための絵を描く。そこにあるものだけを描く。無意識の領域だよ。絵を見るとき、人はそれぞれ、まったく別々の解釈をする。私はとくに意味を伝えようなどとは思っていない。自分の絵をプロパガンダの道具にするつもりはない。そう。『ゲルニカ』をのぞいて、あの絵は、人々に訴えるつもりで描いた。意識的なプロパガンダだ」

1939 フランコ軍によるバルセロナの陥落。

イギリスとフランスがフランコ政権を国家承認。

フランコ軍によるマドリッド陥落。

フランコによる内戦の終結と勝利宣言。

フランコによる人民戦線派 約5万人の死刑判決。

自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対して、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁止。

1940 ヘミングウェイが、『誰がために鐘は鳴る』を発表。
1045 ミロの『星座シリーズ』がアメリカで発表され絶賛される。

ミロの『星座シリーズ』について

幼い娘と妻とともにスペインの内戦を逃れてパリに移住したミロ、その後パリがヒットラーに占領される頃には、多くに芸術家はアメリカに逃れていましたが、ミロは留まり、ノルマンディ地方、マジョルカ島、モンロッチ間を移動しながら、23点の『星座』シリーズを制作します(1940~41)。妻が娘を抱え、彼はスケッチブック・サイズのこれらの作品を大切に抱えながら戦火の中を移動したそうです。

悲惨な第二次大戦の最中に、真逆に清澄な天上世界を描き出した『星座』。天体を象徴したモチーフが中心にあり、人や月や星などがちりばめて描かれています。ミロ本人が『逃避のはしご』と語っている、彼の作品によく出てくる『はしご』も登場します。しかし、この作品は、ナチスドイツやフランコ政権に対する逃避とは言い難く、ミロのしっかりとした主張です。

『シュルレアリスム宣言』を起草し、シュルレアリスム運動の理論的支柱となったアンドレ・ブルトンは、『星座』を『芸術面でのレジスタンス』と評し絶賛しました。

またミロの孫ジョアン・プニェットは次のように語っています。
「『星座』は重要な転機でした。この連作には宇宙に向けた力が感じられます。この連作は身近な戦争、虐殺、無意味な蛮行からの脱出口です。『星座』はこう言っているようです。私にとってこの世界的悲劇からの救済は、私を天へと導く魂だけである。」

1975 フランコ死亡。ブルボン王朝が国民からの支持を受けて復活
1977 総選挙。カタルーニャ自治州政府「ジェネラリタット」が復活。
1978 議会が新憲法を承認、今日のような民主主義体制への移行において、カタルーニャは政治的・文化的な自治を回復。

禁止されていたカタルーニャ語が公用語として復活。街の標識は、カタルーニャ語で表記(スペイン語はその下に表記)されるようになった。

  •  9月 5, 2014

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