9月 052014
 

バルセロナの町を歩き、モデルニズモ建築に触れ、美術館を訪れ、
モンタネールやガウディ、ピカソやミロのことを考えながら、
彼らが共通して拘り続けたカタルーニャ人としての誇りとは何なのか?
それが知りたくて、数冊の歴史の本を読み
自分の頭を整理するためにカタルーニャの歴史(一部スペインの歴史)の流れを年表にまとめてみました。
表層的な要点だけの歴史ですが、
それでも彼ら(特にミロ)が、生涯、強い民族意識と郷土愛を骨格に作品を生み続けた精気の根源を
ほんの少しだけ分かった気がしています。

ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが作ったと伝えられるバルセロナ
BC3000 古代イベリア人が定住
BC12C フェニキア人がイベリア半島に進出
BC 7C ギリシャ人(フェニキアと勢力を競う)が交易を目的に地中海沿いに移住
BC 5C~3C ローマ帝国の植民地となる
BC 2C ポエニ戦争(ローマVSカルタゴ)
BC236 カルタゴの将軍ハミルカル・バルカス(ハンニバルの父)が、この地をイベリア半島の拠点に選び、彼の名前が『バルセロナ』の由来。
AC 7C~8C イスラムによる支配(100年程度)
中世 カタルーニャ北部の至る所で小さな伯領が組織され、これらの弱小国からカタルーニャ文化が生まれ発展。カタルーニャ美術館の素晴らしいロマネスク芸術やピレネーの山奥にひっそりと佇むロマネスク教会の壁画(息をのむほど美しい)や祭具の数々。

貴族の勢力争いで最も力を持ったバルセロナ伯が、王国を名乗らず、実質上のカタルーニャ公国を築き、自治公国として運営。

801~987 バルセロナ伯はフランク王国に臣従し、フランク王国の辺境領(国境付近に置いた防備の為の軍事的領地)となる。
1007 西隣のアラゴンと連合。カタルーニャ=アラゴン連合王国となり、歴代のバルセロナ伯はアラゴン王位をかねる。バルセロナは、地中海進出の拠点として繁栄。
1258 フランク王国から独立
12~15世紀 造船業と地中海貿易による繁栄の時代。ラテン語からカタルーニャ語が派生し、政治・経済の繁栄を背景に、カタルーニャ語による中世文学の黄金時代へ。
1265 バルセロナ市議会や「ジェネラリタット(全カタルーニャの代表)」と呼ばれる政府機関の誕生。ヨーロッパ最初の政府の一つであり、カタルーニャにおける自治の象徴。その後もこの議会が、王の不在の際や戦争のような非常事態に、君主に代わってカタルーニャを統治してきた。そして、現在のカタルーニャ自治州政府へと繋がっている。
1283 ローマ法典の伝統にならいカタルーニャ憲法が編纂される
1469 バルセロナ家とアラゴン王国の血をひくフェラン2世とカスティーリャ王国(マドリッド)のイサベル王女の結婚により、イベリア半島のキリスト教王国が統合。カタルーニャもスペインという一つの同君連合に併合される。
1492 最後まで残っていたグラナダ周辺のイスラム勢力が征服され、レコンキスタが完了
1492 コロンブスの大陸発見。アメリカ大陸進出。ヨーロッパの関心は大西洋へ。地中海貿易は縮小しカタルーニャは衰退へ。
16~17世紀 約80年間のスペインの黄金時代へ
カタルーニャは独自の法と憲法を維持し自治権も維持したが、カタルーニャから自治を奪おうとするスペイン王により徐々に浸食されていく。
1701~ 後継者のいないスペイン国王カルロス2世の死により、ハプスブルグ家(各州独自の法制を尊重し伝統的な統治を約束)とフランスブルボン家(フランス風の中央集権をめざす)が、それぞれスペイン王家との血縁関係があることを理由に王位継承戦争を始める。
結局、ブルボン家のフェリペ5世がスペイン王となる。(今日まで続くスペイン・ブルボン家の始まり)。アラゴン・バレンシア・カタルーニャは、ブルボン王家の統治に抵抗。
1714 9月11日、カタルーニャの都バルセロナは、スペイン国王フェリペ5世の軍(カスティーリャとフランスの合同軍)に陥落される。中世以来のカタルーニャ独自の法や政府は失われた。自治権を取り上げられ、カタルーニャ語の禁止、大学の廃止などカタルーニャは閉塞を強いられた。この日は「屈辱的な敗北の日」として人々の記憶に刻まれた。
18世紀 世界に君臨したスペイン帝国の斜陽化。スペインは対外的には衰えをみせたが、国内、特にカタルーニャ地方の産業は急速に発展した。
19世紀

 

 バルセロナは、スペインでほぼ唯一産業革命を成し遂げ、一気に工業化、近代化が進み、都市への人口が集中し、衛生面などの改善の必要性から、セルダというタウンプランナーにより素晴らしい田園都市計画が立てられた、それに沿って、ゴシック地区を囲っていた城壁が壊され、グラシア通りやカタルーニャ通り界隈に緑地をふんだんに取り入れた新市街が拡張された。

木綿工業によってもたらされた莫大な富により、産業ブルジョワジーという活力ある層が、新市街に競って豪奢な建築を求めた。モデルニスモ建築の流行。新市街は、1888年のバルセロナ万国博で決定的な容姿を現わし、ヨーロッパの注目の的となる。

このように当時の経済力や自信に裏打ちされ、それまで漠然と感じられてきた民族的・地域的独自性の意識や集団的帰属意識がナショナリズムとして覚醒していった。スカタルーニャ語の復活と自治を求めるカタルーニャ主義(カタラニズモ)が、左翼も右翼も政治的見解のいかんによらず包括的に拡大。また文化的にもカタルーニャの栄光の時代『中世』のロマネスクやゴシック芸術に目が向けら、カタルーニャ・ルネサンス運動が起こる。

『モデルニズモ』についての考察

『モデルニズモ』の巨匠であるモンタネールもガウディもカタルーニャ主義の洗礼を受け、カタルーニャ人としての誇りを胸に、カタルーニャの伝統工芸を尊び、中世美術に強く惹かれました。また、中世、キリスト教徒とイスラム教徒が共存するという環境下で生まれた両者の折衷的な建築様式(ムデハル様式)なども自由な発想で取り入れました。『モデルニズモ』は、カタルーニャ人がカタルーニャ主義のもと、独自性を追求した末に創り上げた『ほかの土地にはないカタルーニャ独自の建築様式』です。単に新しい芸術を模索した『アールヌーヴォー』とは基本理念が違いますし、それ故に世紀末の廃頽さも見られません。
また、当時のバルセロナの発展拡大の状況下において華開いたのが『モデルニズモ』であり、19世紀後半に蓄積された資本の投資先として建築が選ばれた訳です。今もなお、高い評価で、人々を魅了して止まない『モデルニズモ』建築は、その魅力が最も発揮される土壌が整っていたが故に実現したとも言えます。

「建築というのはその時代に生きた人々が潜在下で感じていながらもなかなか形に出来なかったものを一撃の下に表す行為だ」(槇文彦)

この言葉の通り、19世紀末、カタルーニャ・ルネッサンスやカタルーニャ主義運動で高揚するバルセロナの人々の民族としての帰属意識、誇りや自信、そういう空気を感じることができるから、私たちはバルセロナに通ってしまうのかもしれません。

1914~1918 第一次世界大戦。スペインは中立を保つことで経済発展。
1923~ 第一次世界大戦後、スペインは、経済が落ち込み、労働運動が先鋭化、バスクやカタルーニャの独立自治運動やスペイン領モロッコのベルベル人の反乱などで国が混乱。バルセロナ総督プリモ・デ・リベーラが、軍部や教会、富裕層の支持を得て、クーデターをおこす。クーデターの承認していた国王アルフォンソ13世より首相に任命され、軍事独裁政権を樹立。ナショナリストとして強国化を目指し、議会を解散、憲法を停止、言論統制を行って労働運動と地方自治運動を弾圧。同時に放漫財政により財政が破たん寸前となる。
1924 ミロの『カタルーニャの農夫の頭』の連作は、リベーラ政権によってカタルーニャ語が禁じられたことに反発して描かれた。
1929 世界恐慌の影響が、スペインにも押し寄せ、通貨価値の崩落からリベーラの経済政策の行き詰まり。
1930 アルフォンソ13世から退陣を迫られ、パリへ亡命。その後に病死。
1931 軍政とそれを支えた国王への不満が高まり、国王アルフォンソ13世は、国外脱出。王制(君主制)が廃止されたのに伴いスペイン第二共和制が成立。カタルニアもつかの間の自治権を得た。
1935 カタルーニャ内の左翼(市民派)、右翼(ファシスト)も急進化が進み、市民派のカタルーニャ人が蜂起してバルセロナに集結。
1936 スペイン全体の共産党大会で、人民戦線戦術(反ファシズムの統一戦線)が採択されると左派勢力が再結集。当時の右派勢力の足並みが乱れていたこともあり、左派の巻き返しが進む中行われた選挙で、左派が圧勝、人民戦線政府が成立。

モロッコへと遠ざけられていたフランコ将軍がクーデタを起こし、各地で右派による反乱が勃発、スペイン内戦へと突入。フランコはヒトラー政権とムッソリーニ政権から支持を受けて戦いを有利に展開。人民戦線側はソビエト連邦から支持を受けたものの、イギリス・フランスは不干渉政策をとったために劣勢が続いた。

国際義勇軍である国際旅団(ヘミングウェイや、後にフランス文相となったアンドレ・マルローや、ジョージ・オーウェル、写真家ロバート・キャパなどが参加)が、各国から集まって人民戦線を支援。

1937 バスク人の地域文化の拠点であり、独立と民主主義の象徴であるゲルニカを見せしめの爆撃で敵の戦意をそごうと、ドイツから送り込まれた航空部隊が、3時間にわたり3000発もの爆弾を落としたゲルニカ無差別爆撃。焼夷弾が本格的に使用された世界初の空襲。

フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの言葉
「ゲルニカには地上で一番幸せな人びとが住んでいる。聖なる樫の樹の下に集う農夫たちがみずからを治め、その行動はつねに賢明なものであった。」

1937 パリ万国博覧会のスペイン館に、ピカソの「ゲルニカ」、ミロの「刈り入れ人」が展示される。

ピカソの『ゲルニカ』についての言葉
「きみたちが読み取ったアイデアや思想を、私も頭の中にもっているのかもしれない。ただし、それは本能的なもの、無意識のなせるわざなんだ。私は絵のための絵を描く。そこにあるものだけを描く。無意識の領域だよ。絵を見るとき、人はそれぞれ、まったく別々の解釈をする。私はとくに意味を伝えようなどとは思っていない。自分の絵をプロパガンダの道具にするつもりはない。そう。『ゲルニカ』をのぞいて、あの絵は、人々に訴えるつもりで描いた。意識的なプロパガンダだ」

1939 フランコ軍によるバルセロナの陥落。

イギリスとフランスがフランコ政権を国家承認。

フランコ軍によるマドリッド陥落。

フランコによる内戦の終結と勝利宣言。

フランコによる人民戦線派 約5万人の死刑判決。

自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対して、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁止。

1940 ヘミングウェイが、『誰がために鐘は鳴る』を発表。
1045 ミロの『星座シリーズ』がアメリカで発表され絶賛される。

ミロの『星座シリーズ』について

幼い娘と妻とともにスペインの内戦を逃れてパリに移住したミロ、その後パリがヒットラーに占領される頃には、多くに芸術家はアメリカに逃れていましたが、ミロは留まり、ノルマンディ地方、マジョルカ島、モンロッチ間を移動しながら、23点の『星座』シリーズを制作します(1940~41)。妻が娘を抱え、彼はスケッチブック・サイズのこれらの作品を大切に抱えながら戦火の中を移動したそうです。

悲惨な第二次大戦の最中に、真逆に清澄な天上世界を描き出した『星座』。天体を象徴したモチーフが中心にあり、人や月や星などがちりばめて描かれています。ミロ本人が『逃避のはしご』と語っている、彼の作品によく出てくる『はしご』も登場します。しかし、この作品は、ナチスドイツやフランコ政権に対する逃避とは言い難く、ミロのしっかりとした主張です。

『シュルレアリスム宣言』を起草し、シュルレアリスム運動の理論的支柱となったアンドレ・ブルトンは、『星座』を『芸術面でのレジスタンス』と評し絶賛しました。

またミロの孫ジョアン・プニェットは次のように語っています。
「『星座』は重要な転機でした。この連作には宇宙に向けた力が感じられます。この連作は身近な戦争、虐殺、無意味な蛮行からの脱出口です。『星座』はこう言っているようです。私にとってこの世界的悲劇からの救済は、私を天へと導く魂だけである。」

1975 フランコ死亡。ブルボン王朝が国民からの支持を受けて復活
1977 総選挙。カタルーニャ自治州政府「ジェネラリタット」が復活。
1978 議会が新憲法を承認、今日のような民主主義体制への移行において、カタルーニャは政治的・文化的な自治を回復。

禁止されていたカタルーニャ語が公用語として復活。街の標識は、カタルーニャ語で表記(スペイン語はその下に表記)されるようになった。

  •  9月 5, 2014
5月 062014
 
ショパンとジョルジュ・サンドが暮らした修道院にて考えたこと

 

パリの社交界で道ならぬ恋に落ちたショパンとジョルジュ・サンド。
ショパンの結核療養と創作活動に相応しい場所を求めて、
マジョルカ島の山間の村ヴァルデモッサに辿り着きました。
1838年の12月、ショパンとサンドは、
中世に建てられたカルトゥハ修道院の
簡素な3つの僧房と庭を借り
彼女の2人の子供達と共に暮らし始めました。

ちょうど冬の雨季に入った島の気候と山間の不便な生活は
ショパンの病状を出発前より悪化させてしまい
また、異国の地から病気の愛人を同伴した不道徳なサンドに対する
保守的な村人たちの反感もあったようです。

この辛酸の日々が、二人の絆を強めました。
母のようにショパンを一生懸命看病するサンドの愛情。
そしてショパンの作品に対するサンドの進歩的で深い理解。
専門分野が違っても、審美眼が同じ域に達していたのでしょう。
それこそが彼の創作の大きな支えだったのだと思います。

この時に生まれた『雨だれ』は、
サンドの母のような愛情と
ショパンの破壊寸前のガラスのように繊細な神経が
ぶつかり合う響きのように感じます。

それにしてもジョルジュ・サンドという女性は、本当に魅力的な女性です。
閉塞的で保守的だった19世紀にあって新しい女、
気高く、自らの情熱としっかり向き合い、ペンをにぎり、恋多き女。
ドラクロワなどの第1級の芸術家や学者、ジャーナリストや政治家との親交。
彼らとの手紙のやり取りが書簡集となって出版されたり、
彼女の描く小説や評論は、新聞などに連載され、当時の民衆を虜にしたといいます。

スタンダールやドストエフスキーといった同時代人の作家仲間からも熱烈な支持を受けていて、
バルザックは、自分の小説に、サンドをモデルにした知性にあふれる女性作家を登場させているほどです。

それに対してショパンは、社交界では陽気で優しく魅力的だったけれども、
私生活では病人で、妄想にとらわれ、不安に打ち勝てず、
手に負えない男だったのではないかと思います。

それでもサンドは、ショパンという天才だけに生み出せるピアノの音の魔力に魅了され、
虜になり、その才にひざまずいた…。
その女心、わかります。

自分には達することのできないものを見た時の衝撃と尊敬の念が、
愛に変わったのではないでしょうか。

ショパンの死後のジョルジュ・サンドは、
田園をこよなく愛し、18世紀に建てられた故郷の館に隠棲し、執筆に専念。
フランスの最初の女性作家として72年の生涯を閉じ
この館の庭園で眠っているそうです。

余談ですが、彼女はこの館で、
召使いや料理人を雇えるような身分であったにもかかわらず
自ら台所に立ってシンプルな料理を作ることに喜びを覚えていたといいます。
時には客を招き、客は、庭でとれたフルーツや野菜、ジビエや森のきのこなどの彼女の料理に舌つづみをうったとか…。

サンドは、友人にあてた手紙で「コンフィチュール(ジャム)は
自分の手でつくらないといけないし、その間少しでも目を離してはいけません。
それは、一冊の本をつくるのと同じくらいの重大事なのです。」と書いています。

やっぱり魅力的です。

 

ショパンとサンドの暮らした部屋の中庭。

 

この中庭からは、糸杉とオリーブやレモンの木が連なる段々畑の景色が広がります。200年近く前に、同じ景色をショパンとサンドも眺めていたのかと思うと感慨無量です。

 

中庭の様子は、当時の絵画を参考に再現されています。

 

ヴァルデモッサ村。村中の至る所に鉢植えのお花が飾られていました。

 

 

  •  5月 6, 2014
5月 052014
 
Museo De La Fundacion Joan Miro

 

寡黙なミロが、語った言葉が痺れます。
「私は大地からはじまり、ものを描くのです。
大地を踏みしめて描かなければならない。
力というものは足から入ってくるからだ。」

彼の大地はカタルーニャの土であり風土そのものです。
郷土を愛し、大地に深く根ざすことをつらぬいた芸術家、ミロ。

人とは、社会とは、国とは何か?
そして、そこに息づく命と、生きる歓びとは?
カタルーニャの大地や木々、風や星や雲の中にその答えを見出したミロ。

彼の評伝を読むと苦闘の日々が伝わってきます。
寡黙であり、真面目であるがゆえに、
感じたこと、見たものの本質から目を反らさず、
自身の内面と真摯に向き合い、もがき苦しんでいます。

そういう苦悩や悲しみの末に生まれた彼自身の精髄のような作品であるから、
私たちの魂を揺さぶるのだと思います。
ミロの精神の崇高さが作品の豊かさとなって
人々から愛されているのでしょう。

ミロのことが理解したくて、カタルーニャの歴史資料を読み、
頭の中を整理するために簡潔に年表にまとめてみました。
興味のある方はこちらからお読み下さい。

『美の旅人スペイン編』(伊集院静著)の中で、
ミロと詩人で美術評論家の瀧口修造の出会いと親交の部分が興味深く描かれていました。
瀧口修造は、ミロの才能を一早く発見し、
1940年、世界で最初に彼に関する論文を執筆刊行しています。
1966年、ミロが来日した際に銀座の南画廊で二人は初めて出逢い、
そこで瀧口が26年前に執筆した著書を渡し、
この本の発行日を知ったミロは、
10歳年下の無口な日本の詩人の肩を優しく抱いたと描かれています。
以来二人の友情は続き、ミロが再来日した折、二人は三日間ホテルに同宿して、
『手作り諺』という詩画集(7カ国語の本文にミロのリトグラが添えられた画期的な本)を合作したそうです。
その後もミロは瀧口の詩集のために何点かの作品を描き、『ミロの星とともに』を刊行。

そして、伊集院さんは、瀧口の詩集『曖昧な諺』の中の
「石は紅さして、千年答えず」という一節を紹介していました。
それに続く伊集院さんの文章が
「ミロもこの一節を読んでいたと想像する。大地は美しく寡黙であると。画家と詩人は見据えていたのではなかろうか。」

 

ミロの作品とヘミングウエイとの逸話も有名です。

ミロの作品『農園』を買い求めたヘミングウェイの言葉
「この絵は、スペインにいるときに感じているすべての要素が内包されており、
その一方でスペインを離れて、故郷に戻れないときに感じるものすべてがある。
誰もほかに、こんなに相反した二つのものを同時に描きえた画家はいない。」

“It has in it all that you feel about Spain when you are there and all that you feel when you are away and cannot go there.
No one else has been able to paint these two very opposing things.”

制作に9ヶ月も費やしたこの作品は、完成当初、不評でした。
ミロは、パリ の画廊を歩き回りましたが買手はつきません。
たまたま一日だけ、カフェに展示する機会を与えられ
そのたった一日の展示期間に、この作品に魅入られた人物がヘミングウェイ です。
しかし、当時のヘミングウェイには、お金がありません。
ヘミングウェイと彼の友人は、街を奔走し、友達から金を借り集めます。
なんとか支払い期日に間に合って、ヘミングウェイ はこの作品を手に入れたそうです。

 

 

ガウディやミロのカタルーニャ魂を考えるために年表を作りました

 

『農園』National Gallery of Art, Washington
左にある畑がきれいに耕されて、種まきの始まりを待ち構えている様子なので季節は春でしょう。犬は欠伸して、鶏の鳴声がこだまし、遠くの井戸では馬が水を汲み上げています。あちこちに散乱する農具。もうすぐ始る仕事の準備に追われている様子。人も動物も、勝手気侭に行動している様だけど、ある秩序が感じられます。この作品を観ていると、風の音や、動物達の声や、農作業に従事している物音が聴こえる様な気がします。それは、何故だか懐かしい物音で、農家の生活とは無縁のわたしでも、故郷に帰った様な錯覚を抱いてしまいます。

 

 

 

  •  5月 5, 2014
4月 292014
 
ボルドーの都市開発を考える

 

私にとっては、ある日突然、
新古典主義の建物が『水の鏡』に映し出される幻想的な写真を見て、
なんて美しいところだろうと一目惚れ。
それが、シャトーワインで有名なボルドーであると知り、
必ず行ってみようと決めました。たった一枚の写真の訴求力です。
いくら、ワインに興味があっても、なかなか赴こうとは思いません。
ところが数年前から急に気になりだした訳です。

多くのフランス人にとっても、
ボルドーは、車の排気ガスで汚れた暗い街というイメージがあり、
2000年代以降のまちの変化は、大きな驚きだったようです。

今回、実際にボルドーを訪れることができ、目の当たりにしたものは、
環境に配慮しながら、ここに暮らす人々、先端技術、水、緑、
そして18世紀の町並みが見事に調和した姿でした。

都市計画のパンフレットなど簡単なものを読んだ程度ですが、
感動すら覚える都市開発の哲学がそこにはあります。

ボルドーのユネスコ世界文化遺産登録(2007年)では、
都市開発が、歴史遺産の保全に矛盾しないという点が評価されたようです。

その立役者は、1995年にボルドー市長に就任したアラン・ジュペ氏。
彼は、ボルドー市の再生計画において、
住民参加型でかつ持続可能な社会を目指すプロジェクトをたくさん打ち立てました。
市は、住民のエコロジー教育と啓発に力を入れ、
例えば、エコロジー憲章の作成、ワークショップなどを通して、
車社会から路面電車活用へのシフト、植物園や花壇で過ごす楽しさなど、
ジュペ氏の目指すまちづくりが、市民の望む環境社会と調和することを目指しました。

社会学で参加民主主義の理論というものがありますが、
それは、人間が、参加を通じて成長し、より良い市民になることに着目しています。
まさにそんな感じで、市民参加が熟成していったのではないでしょうか?

歴史的街並みは、ファサードの洗浄・修復が行われ見事に再生。

都市空間を歩行者や自転車、公共空間に再配分するという理念に基づいて
ガロンヌ川岸の開発や自転車道の整備もなされました。

また、2003年に最新鋭の路面電車 LRT(Light Rail Transit) が開通
市内の中心部は車の乗り入れが制限され、この路面電車が市民の足となりました。

歴史的街並みや河川空間などの都市資源を生かして整備された公共空間は、
歩行者空間のみならず休暇空間、イベント開催空間として活用されています。

この公共空間は,多様な人が共存できる環境をつくり、文化を支える基盤となり、
文化育成のためのプロジェクトが盛んに行われるようになりました。

町に人が集まり、活気に満ちてくると
さらに人が集まり、成熟した文化が生れる。
ボルドーはそういう好循環に入っているように感じます。

 

ブルス広場の前、地面に2cm程張っている水面が鏡のように建物を映し出す「水の鏡」。水が引いた状態、水が張ってる状態、スモークが立ち籠めた状態の 3 パターンがコンピューター制御されてるとか…。

 

ナショナルジオグラフィックから写真を引用

 

常に車が渋滞する狭い車道に対してガロンヌ川沿いの遊歩道の広いこと!市民がゆったりと散歩する憩いの場を優先しています。

 

市内の中心部は、車の乗り入れが制限され、LRTが、市民の足となりました。

 

最新鋭 LRT は架線まで美しい。

  •  4月 29, 2014
7月 122012
 
鬼才タピエスが亡くなって

 

2012年2月6日、鬼才タピエスが亡くなった…。

数ヶ月前のインタビューで
「痛みを愛情で埋めることが重要なのだ。
そしてそのバランスが人生を楽観的にみせてくれるのだ。」
なんだか心に染みてくる言葉です。

バルセロナの彼の美術館にも行きましたし、彼の作品に感動した体験もあります。
それでも、彼自身については、詳しく知らなかったので、本を読んで少しだけ調べてみました。

1923年、バルセロナの弁護士の家庭に生まれ、蔵書に囲まれて育ったようです。
サルトルやハイデガーなど哲学書を愛読し、多感な13歳から16歳までの間に、スペイン内戦も経験してます。
大学で法律を学ぶかたわら、素描を学び、途中で法律を放棄して美術の世界へ。
内戦による心の傷などを抱え、抑えがたい表現意欲を駆り立てられたのでしょう。

50年代はパリに滞在し、ここで、アンフォルメル運動(*1)に参加し、彼の画風を決定づけました。
あらゆる形式的な配慮を捨てて、マティエール(粗くて厚塗りの絵肌)やコラージュ、絵具に砂を混ぜるなど独自の手法を作り上げ、
生きることの緊張感のようなものを、激しく表現するようになりました。

(*1)アンフォルメル(非定形なるもの)運動
第二次大戦後、フランスを中心にヨーロッパに登場した抽象絵画。
アメリカの抽象表現主義と平行した動き
「具象表現でも抽象表現でも、伝統的フォルムの概念がとりいれられている。
アンフォルメルはそうした概念を捨て去ることを目指した。
マティエールを通して、人間の精神の奥底にある複雑さと豊かさを自由に表現しようとした。」(ジャン・デュビュッフェ著)

60年代には当時のフランコ独裁政権に対する抗議運動に参画し、
身柄を拘束されたこともあるようです。
彼の表現が、鋭い緊迫感を秘めているのは独裁政権下の不安定感や憤りを反映しているからでしょう。

また、タピエスは、17歳から18歳にかけて胸を病み、山間での治療生活を送ったときに
ニーチェやショーペンハウエルを通して『東洋』に接して以来、東洋哲学にも造詣が深く、
『禅』は彼の芸術に強い影響を与えたと言われています。

愛読書である岡倉天心の『茶の本』について、
「精神と物質を分けず、宇宙的な広がりを捉える見方が私の考え方と一致します」(タピエス)

そして、1996年にタピエス著の『実践としての芸術』が出版されます。

「芸術は知の源である。科学や哲学などの源である。
現実認識を修正していくために人間が企てる偉大な闘争である。
芸術を通じて、芸術家は自らを高め、自らを解放する。(中略)
ある形式が、発表の場としての社会を傷つけ、怒らせ、反省させることができなければ、
あるいは社会の停滞を浮き彫りにし、社会を刺激することができなければ、
真の芸術作品とは言えない(中略)
芸術家は鑑賞者に、彼らの世界の狭さを悟らせ、新たな地平を開いてやらなければならない」(タピエス著)

いささか、教条的ですが…。

彼は、芸術が社会の目を開花させる能力を持ち、それが役目でもあるとし、
画家の社会的使命を意識し続けてきたのでしょう。

スペインの思想家オルテガの言葉です。

「芸術は単なる装飾品でも趣味でもなく、
歴史的パースペクティヴのなかでとらえた場合に、はじめて明らかになる多くの意味を持った人間的行為だ。」

この本の中のピカソやミロについての記述も面白く、

「1940年代の我が国の若者たちの多くは、
いつでもきちんと頭を梳かし、ネクタイを締めて、
行儀良くかしこまっていられるものだと信じ込んでいた。
ピカソの作品同様、ミロの作品が彼らに与えた密かな衝撃は、
彼らに自覚を持たせるのに大いに役立った。
もちろん、それは単に、美術という分野の内部に限られたものではなく、
彼らの生の全体に係わるような性質のものであった。
創造者の影響力とは常にそうしたものである。
人間と歴史をねじ曲げようとする力を目前にして、
目を開かれようとしていた者たちにおいて、
その感動はとりわけ深かった。」

タピエスは、ミロの絵が若者たちの心を開眼させたとして、権力者のいいなりになるのではなく、
郷土への愛や自らの自由を守る意志を示す人間へと目覚めさせたとしています。
ピカソとは対照的に、ミロは大々的に政治的な発言をしたり、社会批判の作品を発表してきたわけではなく、
唯々、カタルーニャの大地に根ざした作品を作り続けました。
その寡黙な創作姿勢を尊敬していたのでしょう。

絵画に触れることは、しばし芸術家の思想に耳を傾けることでもあって、
絵画を見た瞬間の魂を揺さぶられるような体験は、
そういうところからきているのでしょう。

死因などは、明らかになっていませんが、享年88歳。
最後の20世紀の巨匠は、現代にどんな思いを抱きながら、
この世を去ったのでしょうか?
好奇心をくすぐります。

 

 

  •  7月 12, 2012