10月 302016
 
広島折り鶴タワーの展望台 – ひろしまの丘

 

原爆ドームから近いところにできた折り鶴タワーへ行きました。散歩道と呼ばれる半屋外のスパイラルスロープを屋上まで上ると、息を吞みました。囲う壁がなく、木製の床、柱、庇のみの温もりのある空間。よく見ると安全対策のメッシュがありますが気になりません。鏡もうまく使って空間に広がりを持たせていました。 「ひろしまの丘」という名の通り、こんもりとした丘から街を見渡せるように勾配があり、勾配のステップ部分には、良い塩梅で腰掛けられるようになっています。 風を強く感じることが、コンセプトとのこと。

 

 

 

 

 

展望台からは、原爆ドームを上から眺めることができます。

 

散歩道と呼ばれる半屋外のスパイラルスロープ

 

  •  10月 30, 2016
10月 272016
 
大好きな李禹煥の美術館前で柱と対峙する私

 

美術館の入り口の『関係項-点線面』。少し傾斜した薄茶色の岩、オベリスクのようにそそり立つコンクリートの柱、黒い四角い鉄板が、真っ白な砂利の上に配置され、その先には、コンクリートの壁が屹立しています。豊かな自然を背景に 点と直線と面が、ただそこにあるだけ。

 

 

 

 

  •  10月 27, 2016
10月 272016
 
杉本博司「タイム・エクスポーズド」
直島ベネッセハウス ミュージアムレストランからの眺め

 

直島ベネッセハウス ミュージアムを訪れた時、バスキアの絵の前で、魂の叫びのようなものに打ちのめされ、少し休もうと、すく横にあったレストランの入り口を入りました。すると、コンクリートの壁で縁取りされた瀬戸内海の景色がハッと目に入り、なんだか心が晴れやかに切り替わりました。

 

杉本博司による世界各地の海と空の濃淡を撮影した水平線の連作が、屋外の海に面したコンクリート壁に展示され、目の前に広がる瀬戸内海の果ての水平線と呼応しています。

 

計算され尽くしたレストランからの眺め

 

  •  10月 27, 2016
10月 312015
 
ハワードパークでのピノノワール テイスティング
International Pinot Noir Tasting & Lunch
Howard Park Winery, Margaret River

フランス、ドイツ、USA、ニュージーランド、オーストラリアからのピノノワール18種をテイストできるとても良い機会でしたが、ブラインド、ほとんど外しました。

 

テイスティングの後のランチョンで、さらにエシェゾーやら色々飲んで、その後は生バンドでダンス。

 

雲一つない青空。気持ちの良い春の一日。

 

マーガレットリバーにある WAGYU ファーム

  •  10月 31, 2015
10月 072015
 
サウスフリーマントルのポップアップレストラン

Ginger Morris のオーナーとメルボルンのシェフのコラボで実現した2週間だけのポップアップレストラン。Ginger Morris の裏庭に設えられたラスティックなテーブルや椅子。木陰の席でランチを頂きました。庭と一体となったオープンな厨房で働く人々の動きを見ながら気持ちの良い時間を過ごすことができました。

 

 

あまりに素敵な空間だったので、改めてディナーに挑戦しました。お料理も美味しく2週間だけのポップアップレストランとは残念です。

 

納屋にはパン焼き釜あって、夜はワインバーになる。真ん中の大きなシャンデリアも素敵。

 

 

住宅の裏庭に突如出現したレストラン

 

  •  10月 7, 2015
7月 052015
 
「線を聴く」展 
LISTENING TO THE LINES 
銀座メゾンエルメス フォーラムにて

 

シンプルな「線」を考察す「線を聴く」展は、シンプルなかたち展に呼応する形で開催されていますが、

ここで私が魅了されたのは、ロジェ カイヨワ のストーンコレクション(フランス国立自然史博物館蔵)。カイヨワ という人の存在を知らずに50年以上も生きてしまいましたが、フランスの文芸批評家、社会学者、哲学者とのこと。さっそく著書の『石が書く』を読んでみたいと思います。

作品は、瑪瑙や大理石の切断面を研磨したものですが、何万年もの時を経て、様々な鉱物を含み年輪を刻んだ切断面の模様や色彩は、自然にゆだねられた偶然の造形美です。何万年の時の流れを内に秘めているから人を惹きつけるのでしょうか?

 

『あちこちに石がみずから書き残したしるしは、

それにこだまを返す他のしるしの探索と精神を誘う。
私はこうしたしるしの前に佇み、みつめ、記述する。
そのとき、遊びがはじまる、

発明であると同時に認識でもある遊びが。』

ロジェ カイヨワ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  •  7月 5, 2015
7月 052015
 
シンプルなかたち展:美はどこからくるのか

 

考古学的な作品から現代アートまで「シンプルなモノ」が、ジャンルを超え、時空を超えて集結するというのですから、行かないわけにはいきません。最終日になんとか間に合い行ってきました。

「とても官能的でエレガントな展示となった」

キュレーターである森美術館館長、南條史生氏はこう評したといいます。

森美術館、フランスのポンピドゥー センター メスとエルメス財団の共同企画で、ジャンド ロワジーがキュレーションした展示に、李朝の白磁壺(青山次郎所有)、仙厓の円相図、円空仏、長次郎の黒樂茶碗、東大寺二月堂の根来日の丸盆など日本独自の展示が加わっています。

入室するとまず、コルビュジェが浜辺で拾った石のコレクション(ぺリアンの集めたものもありました)。ただの拾ってきた石なのですが、何時間でもそこで対話ができるほど、たくさん語りかけてきます。

「昨今のコンセプト重視の現代アートに対し、感性で見る展覧会だ。」という南條氏のコメントの通り、虚心坦懐、心が感じる様子を別の私が観察しているような感じでしょうか。それは、官能的ともいえます。すべての作品や展示方法が洗練されていてエレガントであるのは、言うまでもありません。

私の中でのエレガントの極みは、李朝の白磁壺。それはそれは鳥肌が立つほど美しかったです。

それから、生涯を通じて、『シンプルなかたち』を追求したブランクーシの彫刻もやっぱり心を打ちました。

 

 

ピカソの「牡牛」の連作。牡牛が写実的なものから、どんどん単純化され幾何学化していく。最後のシンプルな線のみで描かれた牡牛が心を打ちます。単純化するということは、情報をそぎ落として大切なものだけ残すこと。すなわち、本質をつかむこと。

「シンプル > 普遍的な美 > 本質」そんな図式でしょうか?

シンプルが何かの本質を捉えていなければ、人の心は打たないし、普遍性も持たない、そんなことを考えながら、仙厓や長次郎を思いました。

ところで、この展示の素敵なところは、最後にスティーブ・ジョブズのデザイン哲学と関連づけているところ。スティーヴ・ジョブズは「シンプルになればなるほど美しさが増す。」というデザイン哲学を語るために、この連作を用いていたそうです。

 

 

 

セクション4「力学的なかたち」

大巻伸嗣のリミナル・エアー スペース・タイム

透明な布が、床からの送風機により、一定時間、宙に舞い、その変化し続ける形を鑑賞します。一切の装飾を排除した簡素な仕掛けですが、床に着地しては、舞い上がる柔らかな布の動きを何度も何度も、随分と長い時間、無心で眺めていました。背景の窓からの採光が刻々と変化することを考えると開館から閉館までずっとこの作品の前に居座りたくなってしまいます。

 

 

 

 

  •  7月 5, 2015
10月 182014
 

ピルピルを化学する- ビルバオ

 

ビルバオのピルピル専門店、Urbietaで頂いた塩鱈のピルピル (Bacalao al Pil Pil) が美味しくて、

その後、ずっとピルピルの乳化について気になっていました。

最近、乳化に関する文章を読んだので、

ピルピル作りのプロセスを化学的な視点からみて失敗しないコツを考えてみました。

 

ピルピルとはバスク地方のバカラオ(干しダラ)を使った料理。材料も作り方も極めてシンプルながら本場のバスクには選手権があるほど奥が深い料理。ちなみにピルピルとは、この料理を作っている時の音からきています。旨みが凝縮した干しダラの身もさることながら、干しダラの旨みとオリーブオイルが文字通り渾然一体となって生み出される独特のソースがこれまたいけるんです。このソースだけで軽くバゲット1本くらい頂けそうな美味しさです。

 

作り方

塩ダラを1日以上かけて、水を何度も換えて塩抜きしておく。

カスエラ(CAZUELA)と呼ばれる浅い土鍋に干しダラ、オリーブオイル、ニンニク、赤唐辛子を入れ、

極弱火にかけ、鍋を円を描くように回し続ける。

せわしなく回し続ける必要はなく、ゆったとした心構えで一定のリズムで回し続ける。

そのうち、鍋からピルピルと小さな音が聞こえ始め、

オリーブオイルが徐々に乳化し白っぽくなり始める。

この段階に至るまで約10分ぐらい。それまでひたすら鍋を回し続ける。

干しダラはどこかで一度ひっくり返して全体に火を通す。

オイルが完全に乳化してクリーム状のどろっとした状態になったら完成。ここまで約20分程度。

 

簡単そうですが、いざトライしてもそう簡単にオイルは乳化しないのです。

シンプルな料裡ほど奥が深く、マニュアル化できないというのも確かです。

 

そこで、ピルピル作りのプロセスを化学的な視点からみてみると

 

干しダラをオイルに入れて熱を加えることにより、

干しダラに含まれているタンパク質の一種であるコラーゲンが加熱によってゼラチンに変性して旨みといっしょに溶け出し、

タンパク質の持っている乳化作用と鍋を回すことによる攪拌とにより

オイルと水分が混ざり合って白っぽいドロッとしたエマルション(乳濁液)が作り出されます。

              
乳化作用とは、いわゆる界面活性作用のことで、

せっけんが油汚れを吸着して洗浄効果を発揮するのと同じ作用。

料理でいうと卵黄と油を攪拌するマヨネーズやパスタのゆで汁を入れてパスタソースを乳化させる原理と同じです。

マヨネーズの場合は、卵黄に含まれるレシチンが、パスタソースの場合はゆで汁に含まれるサポニンという物質が界面活性剤として作用して

油の分子を親水性の分子で覆って、水分に親和させ、水と油が混ざりあったエマルション(乳濁液)を作り出す…。とのことです。

 

つまり、コラーゲンがゼラチンに変性して溶け出すには一定に時間が必要なので、
    
カスエラ(鍋)を火にかけてしばらくはまったく動きがなく、乳化するのか心配になりますが、

忍の一字で一定間隔でフライパンを回し続けることが肝要のようです。

           
また、干しダラとオリーブオイルの量のバランスも大切です。

干しダラの量にもよりますがあまり大きな器を使ってオイルの量が多すぎるとうまく乳化しない場合があります。

逆にさらっとしたソースにしたい場合は、オリーブオイルが乳化し始めてからミネラルウォーターを少しずつ加えて攪拌してもいいそうです。
                 

魚のコラーゲンは人の体温よりも低い温度で変性するので、油の温度は40℃程度。

フライパンなど熱伝導の良い器具を使う場合は、時々火から外して温度があまり高くならないようにする工夫が必要です。

 

こんなことが頭の片隅にあると、絶品ピルピルが作れるかもしれません!

 

バスク料理には欠かせない、カスエラ(CAZUELA)。アヒージョが有名ですが、マミア(Mamia) ヨーグルトもこれで作ります。

 

  •  10月 18, 2014
9月 052014
 

バルセロナの町を歩き、モデルニズモ建築に触れ、美術館を訪れ、
モンタネールやガウディ、ピカソやミロのことを考えながら、
彼らが共通して拘り続けたカタルーニャ人としての誇りとは何なのか?
それが知りたくて、数冊の歴史の本を読み
自分の頭を整理するためにカタルーニャの歴史(一部スペインの歴史)の流れを年表にまとめてみました。
表層的な要点だけの歴史ですが、
それでも彼ら(特にミロ)が、生涯、強い民族意識と郷土愛を骨格に作品を生み続けた精気の根源を
ほんの少しだけ分かった気がしています。

ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが作ったと伝えられるバルセロナ
BC3000 古代イベリア人が定住
BC12C フェニキア人がイベリア半島に進出
BC 7C ギリシャ人(フェニキアと勢力を競う)が交易を目的に地中海沿いに移住
BC 5C~3C ローマ帝国の植民地となる
BC 2C ポエニ戦争(ローマVSカルタゴ)
BC236 カルタゴの将軍ハミルカル・バルカス(ハンニバルの父)が、この地をイベリア半島の拠点に選び、彼の名前が『バルセロナ』の由来。
AC 7C~8C イスラムによる支配(100年程度)
中世 カタルーニャ北部の至る所で小さな伯領が組織され、これらの弱小国からカタルーニャ文化が生まれ発展。カタルーニャ美術館の素晴らしいロマネスク芸術やピレネーの山奥にひっそりと佇むロマネスク教会の壁画(息をのむほど美しい)や祭具の数々。

貴族の勢力争いで最も力を持ったバルセロナ伯が、王国を名乗らず、実質上のカタルーニャ公国を築き、自治公国として運営。

801~987 バルセロナ伯はフランク王国に臣従し、フランク王国の辺境領(国境付近に置いた防備の為の軍事的領地)となる。
1007 西隣のアラゴンと連合。カタルーニャ=アラゴン連合王国となり、歴代のバルセロナ伯はアラゴン王位をかねる。バルセロナは、地中海進出の拠点として繁栄。
1258 フランク王国から独立
12~15世紀 造船業と地中海貿易による繁栄の時代。ラテン語からカタルーニャ語が派生し、政治・経済の繁栄を背景に、カタルーニャ語による中世文学の黄金時代へ。
1265 バルセロナ市議会や「ジェネラリタット(全カタルーニャの代表)」と呼ばれる政府機関の誕生。ヨーロッパ最初の政府の一つであり、カタルーニャにおける自治の象徴。その後もこの議会が、王の不在の際や戦争のような非常事態に、君主に代わってカタルーニャを統治してきた。そして、現在のカタルーニャ自治州政府へと繋がっている。
1283 ローマ法典の伝統にならいカタルーニャ憲法が編纂される
1469 バルセロナ家とアラゴン王国の血をひくフェラン2世とカスティーリャ王国(マドリッド)のイサベル王女の結婚により、イベリア半島のキリスト教王国が統合。カタルーニャもスペインという一つの同君連合に併合される。
1492 最後まで残っていたグラナダ周辺のイスラム勢力が征服され、レコンキスタが完了
1492 コロンブスの大陸発見。アメリカ大陸進出。ヨーロッパの関心は大西洋へ。地中海貿易は縮小しカタルーニャは衰退へ。
16~17世紀 約80年間のスペインの黄金時代へ
カタルーニャは独自の法と憲法を維持し自治権も維持したが、カタルーニャから自治を奪おうとするスペイン王により徐々に浸食されていく。
1701~ 後継者のいないスペイン国王カルロス2世の死により、ハプスブルグ家(各州独自の法制を尊重し伝統的な統治を約束)とフランスブルボン家(フランス風の中央集権をめざす)が、それぞれスペイン王家との血縁関係があることを理由に王位継承戦争を始める。
結局、ブルボン家のフェリペ5世がスペイン王となる。(今日まで続くスペイン・ブルボン家の始まり)。アラゴン・バレンシア・カタルーニャは、ブルボン王家の統治に抵抗。
1714 9月11日、カタルーニャの都バルセロナは、スペイン国王フェリペ5世の軍(カスティーリャとフランスの合同軍)に陥落される。中世以来のカタルーニャ独自の法や政府は失われた。自治権を取り上げられ、カタルーニャ語の禁止、大学の廃止などカタルーニャは閉塞を強いられた。この日は「屈辱的な敗北の日」として人々の記憶に刻まれた。
18世紀 世界に君臨したスペイン帝国の斜陽化。スペインは対外的には衰えをみせたが、国内、特にカタルーニャ地方の産業は急速に発展した。
19世紀

 

 バルセロナは、スペインでほぼ唯一産業革命を成し遂げ、一気に工業化、近代化が進み、都市への人口が集中し、衛生面などの改善の必要性から、セルダというタウンプランナーにより素晴らしい田園都市計画が立てられた、それに沿って、ゴシック地区を囲っていた城壁が壊され、グラシア通りやカタルーニャ通り界隈に緑地をふんだんに取り入れた新市街が拡張された。

木綿工業によってもたらされた莫大な富により、産業ブルジョワジーという活力ある層が、新市街に競って豪奢な建築を求めた。モデルニスモ建築の流行。新市街は、1888年のバルセロナ万国博で決定的な容姿を現わし、ヨーロッパの注目の的となる。

このように当時の経済力や自信に裏打ちされ、それまで漠然と感じられてきた民族的・地域的独自性の意識や集団的帰属意識がナショナリズムとして覚醒していった。スカタルーニャ語の復活と自治を求めるカタルーニャ主義(カタラニズモ)が、左翼も右翼も政治的見解のいかんによらず包括的に拡大。また文化的にもカタルーニャの栄光の時代『中世』のロマネスクやゴシック芸術に目が向けら、カタルーニャ・ルネサンス運動が起こる。

『モデルニズモ』についての考察

『モデルニズモ』の巨匠であるモンタネールもガウディもカタルーニャ主義の洗礼を受け、カタルーニャ人としての誇りを胸に、カタルーニャの伝統工芸を尊び、中世美術に強く惹かれました。また、中世、キリスト教徒とイスラム教徒が共存するという環境下で生まれた両者の折衷的な建築様式(ムデハル様式)なども自由な発想で取り入れました。『モデルニズモ』は、カタルーニャ人がカタルーニャ主義のもと、独自性を追求した末に創り上げた『ほかの土地にはないカタルーニャ独自の建築様式』です。単に新しい芸術を模索した『アールヌーヴォー』とは基本理念が違いますし、それ故に世紀末の廃頽さも見られません。
また、当時のバルセロナの発展拡大の状況下において華開いたのが『モデルニズモ』であり、19世紀後半に蓄積された資本の投資先として建築が選ばれた訳です。今もなお、高い評価で、人々を魅了して止まない『モデルニズモ』建築は、その魅力が最も発揮される土壌が整っていたが故に実現したとも言えます。

「建築というのはその時代に生きた人々が潜在下で感じていながらもなかなか形に出来なかったものを一撃の下に表す行為だ」(槇文彦)

この言葉の通り、19世紀末、カタルーニャ・ルネッサンスやカタルーニャ主義運動で高揚するバルセロナの人々の民族としての帰属意識、誇りや自信、そういう空気を感じることができるから、私たちはバルセロナに通ってしまうのかもしれません。

1914~1918 第一次世界大戦。スペインは中立を保つことで経済発展。
1923~ 第一次世界大戦後、スペインは、経済が落ち込み、労働運動が先鋭化、バスクやカタルーニャの独立自治運動やスペイン領モロッコのベルベル人の反乱などで国が混乱。バルセロナ総督プリモ・デ・リベーラが、軍部や教会、富裕層の支持を得て、クーデターをおこす。クーデターの承認していた国王アルフォンソ13世より首相に任命され、軍事独裁政権を樹立。ナショナリストとして強国化を目指し、議会を解散、憲法を停止、言論統制を行って労働運動と地方自治運動を弾圧。同時に放漫財政により財政が破たん寸前となる。
1924 ミロの『カタルーニャの農夫の頭』の連作は、リベーラ政権によってカタルーニャ語が禁じられたことに反発して描かれた。
1929 世界恐慌の影響が、スペインにも押し寄せ、通貨価値の崩落からリベーラの経済政策の行き詰まり。
1930 アルフォンソ13世から退陣を迫られ、パリへ亡命。その後に病死。
1931 軍政とそれを支えた国王への不満が高まり、国王アルフォンソ13世は、国外脱出。王制(君主制)が廃止されたのに伴いスペイン第二共和制が成立。カタルニアもつかの間の自治権を得た。
1935 カタルーニャ内の左翼(市民派)、右翼(ファシスト)も急進化が進み、市民派のカタルーニャ人が蜂起してバルセロナに集結。
1936 スペイン全体の共産党大会で、人民戦線戦術(反ファシズムの統一戦線)が採択されると左派勢力が再結集。当時の右派勢力の足並みが乱れていたこともあり、左派の巻き返しが進む中行われた選挙で、左派が圧勝、人民戦線政府が成立。

モロッコへと遠ざけられていたフランコ将軍がクーデタを起こし、各地で右派による反乱が勃発、スペイン内戦へと突入。フランコはヒトラー政権とムッソリーニ政権から支持を受けて戦いを有利に展開。人民戦線側はソビエト連邦から支持を受けたものの、イギリス・フランスは不干渉政策をとったために劣勢が続いた。

国際義勇軍である国際旅団(ヘミングウェイや、後にフランス文相となったアンドレ・マルローや、ジョージ・オーウェル、写真家ロバート・キャパなどが参加)が、各国から集まって人民戦線を支援。

1937 バスク人の地域文化の拠点であり、独立と民主主義の象徴であるゲルニカを見せしめの爆撃で敵の戦意をそごうと、ドイツから送り込まれた航空部隊が、3時間にわたり3000発もの爆弾を落としたゲルニカ無差別爆撃。焼夷弾が本格的に使用された世界初の空襲。

フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの言葉
「ゲルニカには地上で一番幸せな人びとが住んでいる。聖なる樫の樹の下に集う農夫たちがみずからを治め、その行動はつねに賢明なものであった。」

1937 パリ万国博覧会のスペイン館に、ピカソの「ゲルニカ」、ミロの「刈り入れ人」が展示される。

ピカソの『ゲルニカ』についての言葉
「きみたちが読み取ったアイデアや思想を、私も頭の中にもっているのかもしれない。ただし、それは本能的なもの、無意識のなせるわざなんだ。私は絵のための絵を描く。そこにあるものだけを描く。無意識の領域だよ。絵を見るとき、人はそれぞれ、まったく別々の解釈をする。私はとくに意味を伝えようなどとは思っていない。自分の絵をプロパガンダの道具にするつもりはない。そう。『ゲルニカ』をのぞいて、あの絵は、人々に訴えるつもりで描いた。意識的なプロパガンダだ」

1939 フランコ軍によるバルセロナの陥落。

イギリスとフランスがフランコ政権を国家承認。

フランコ軍によるマドリッド陥落。

フランコによる内戦の終結と勝利宣言。

フランコによる人民戦線派 約5万人の死刑判決。

自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対して、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁止。

1940 ヘミングウェイが、『誰がために鐘は鳴る』を発表。
1045 ミロの『星座シリーズ』がアメリカで発表され絶賛される。

ミロの『星座シリーズ』について

幼い娘と妻とともにスペインの内戦を逃れてパリに移住したミロ、その後パリがヒットラーに占領される頃には、多くに芸術家はアメリカに逃れていましたが、ミロは留まり、ノルマンディ地方、マジョルカ島、モンロッチ間を移動しながら、23点の『星座』シリーズを制作します(1940~41)。妻が娘を抱え、彼はスケッチブック・サイズのこれらの作品を大切に抱えながら戦火の中を移動したそうです。

悲惨な第二次大戦の最中に、真逆に清澄な天上世界を描き出した『星座』。天体を象徴したモチーフが中心にあり、人や月や星などがちりばめて描かれています。ミロ本人が『逃避のはしご』と語っている、彼の作品によく出てくる『はしご』も登場します。しかし、この作品は、ナチスドイツやフランコ政権に対する逃避とは言い難く、ミロのしっかりとした主張です。

『シュルレアリスム宣言』を起草し、シュルレアリスム運動の理論的支柱となったアンドレ・ブルトンは、『星座』を『芸術面でのレジスタンス』と評し絶賛しました。

またミロの孫ジョアン・プニェットは次のように語っています。
「『星座』は重要な転機でした。この連作には宇宙に向けた力が感じられます。この連作は身近な戦争、虐殺、無意味な蛮行からの脱出口です。『星座』はこう言っているようです。私にとってこの世界的悲劇からの救済は、私を天へと導く魂だけである。」

1975 フランコ死亡。ブルボン王朝が国民からの支持を受けて復活
1977 総選挙。カタルーニャ自治州政府「ジェネラリタット」が復活。
1978 議会が新憲法を承認、今日のような民主主義体制への移行において、カタルーニャは政治的・文化的な自治を回復。

禁止されていたカタルーニャ語が公用語として復活。街の標識は、カタルーニャ語で表記(スペイン語はその下に表記)されるようになった。

  •  9月 5, 2014
7月 202014
 
『イカ墨スパゲティ』の感動  –  マヨルカ島にて
Caballito de mar – Palma de Mallorca

 

旅行に行くとき、私にとって
何を何処で食べるかは、最大の問題です。
現地で暮らす人などのアドバイスをかき集め
綿密かつベストの食事計画を立てます。

旅先で、それに振り回されたとしても、
不味いものを食べる羽目になるよりは、計画優先です。
計画は、事前に調べた店や現地で見つけた店。
現地で、混雑している店や行列などを見ると、
どんな美味しいものがあるのだろうかとワクワクしてしまいます。

そんな私でも、時には、適当な時があります。
マジョルカ島がそれでした。
父の希望で行くことになりましたが
特に興味もなかったのです。
食事のことも考えていませんでした。

たまたま訪れた美術館の人に「この後、軽くランチがしたいんだけど…。」
軽い気持ちで尋ねると、町の中心の海沿いにあるレストランを教えてくれました。
混雑した店でしたが、なんの期待もなく淡々と注文を済ませました。

前菜のマテ貝とエビのカルパッチョが、殊の外美味しく。あれっ!と…。
そして、メインに頼んだ『イカ墨のスパゲッティ』を口にし、また、あれっ!と…。
モチモチした触感でイカ墨のコクが凝縮された麺、かすかな塩加減。
ニンニクもハーブも使われていないシンプルなトマトソース。
トマト自体の酸味と甘みのバランスがとても良くて。
食べれば食べるほどに、もう美味しくて、美味しくて…。

時に、期待に胸を弾ませて、3つ星レストランに行くこともあります。
素敵な高揚感を味わったり、確かに美味しくて感激することもあります。

でも、この『イカ墨スパゲティ』の感動は、
もっと深くて、心の奥からの純粋なもの。
思いがけない感動こそ、ずっと心に残る旅の醍醐味。
計画の立て過ぎは考えものなのかもしれません。

レストランのサイトへはこちらから

 

 

 

海老のカルパッチョ。ワサビがアクセントで、これまたびっくりするほど美味しかったです。このあたりの海老なのでしょうか?甘みと旨味の強いアカザエビのような味でした。

 

 

レストランのサイトから写真を引用しています (Caballito de mar)

 

レストランのサイトから写真を引用しています (Caballito de mar)

 

  •  7月 20, 2014